南鄕継正

認識論的にいえば、学問は自己と対象との矛盾が対象の解明によって、一つまた一つと解決し、それについての安らぎが生じることに着目した解決法といえようし、宗教は、絶対者あるいは己れを信じることによって、つまり己れの常態を乱されざることが安心であることに着目しての解決法なのである。 そして、学問でそれを主題として生き続けてきたものが哲学である、宗教で特に、ここに留意して発展してきたのが禅宗であったといえよう。 日常語を用いていえば、アタマ(知識)が不安を起こす原因であるから、アタマを使ってその不安の元をつきとめて一つ一つと消していくのが哲学だったのである、アタマがいくら騒いでもココロさえ安定していれば、つまり周囲に煩わされなければ、何らの不安もないことを知ってココロの安定を図ってきたのが禅宗だったといえば分かりやすい。 これこそが、哲学と宗教が他に比して見事に人生を語れるゆえんである。